お風呂場や洗面所、あるいは雨上がりの玄関先などで黒くて細長い虫がサササッと走り抜ける姿を目撃し、その尻尾に付いているハサミのような突起を見て「毒虫ではないか」「刺されるのではないか」と恐怖したことはないでしょうか。その正体はハサミムシです。体長は二センチメートル前後、黒や濃い茶色のボディを持ち湿った場所を好むため水回りで遭遇することが多く、その素早い動きと相まってゴキブリと混同されたりムカデの仲間だと誤解されたりすることがよくあります。しかし彼らのトレードマークであるお尻のハサミは、外敵から身を守るための武器であると同時に獲物を捕まえたり交尾の際に使ったりするための多機能ツールであり、人間を攻撃するためにあるのではありません。指などを差し出せば挟まれることはありますが、毒はなく痛みもチクリとする程度で深刻な怪我につながることはまずありません。むしろハサミムシは昆虫界でも珍しいほどの「教育ママ」として知られており、メスは産んだ卵を外敵から守り続け孵化した幼虫に餌を運ぶなど献身的に子育てをする習性を持っています。種類によっては母親が自らの体を子供たちに食わせて命を繋ぐという壮絶な最期を遂げるものさえいます。家の中に侵入してくるのは主に植木鉢の下や庭の石の裏などの湿った環境が近くにある場合が多く、乾燥した室内で繁殖することは稀です。彼らは腐植質や小さな虫を食べる掃除屋の役割を果たしているため、生態系という観点からは益虫とも言えます。もし家の中で見つけても不快だからといって即座に踏み潰したり殺虫剤をかけたりするのではなく、彼らが迷い込んだだけの母親あるいは父親かもしれないと想像してみてください。紙一枚あれば簡単にすくい取ることができますので、そっと庭の湿った土の上に戻してあげれば彼らはまたそのハサミを揺らしながら本来の住処へと帰っていくでしょう。恐ろしい見た目の裏に隠された家族愛の物語を知れば、黒い走り屋への眼差しも少しは優しくなるかもしれません。
お尻のハサミがトレードマークの黒い走り屋ハサミムシ