私が、その小さな定食屋の扉を初めて叩いたのは、ある夏の日のことでした。長年、夫婦二人で切り盛りしてきたというその店は、地域の人々に愛されていましたが、厨房の衛生状態は、お世辞にも良いとは言えませんでした。そして、彼らが抱える最大の悩み、それがチャバネゴキブリの大量発生でした。「もう、何をやってもダメなんだ。夜、電気をつけると、床が茶色く見えるくらいでね…」。疲れ果てた表情で語る店主の言葉は、切実でした。私は、まず徹底的な調査から始めました。厨房の至る所に調査用のトラップを仕掛けると、翌日には、どのトラップもチャバネゴキブリで真っ黒になっていました。特に、冷蔵庫のモーター部分と、古い木製の棚の裏側が、彼らの主要な巣(ホットスポット)になっていることが判明しました。私は、店主夫婦に、駆除計画を説明しました。それは、ただ薬剤を撒くだけのものではありませんでした。まず、私たちが徹底的に清掃を行い、彼らの餌と隠れ家を奪うこと。そして、特定したホットスポットを中心に、プロ用のベ-イト剤を、戦略的に設置していくこと。そして何より、この清潔な状態を、夫婦自身の手で維持し続けてもらうこと。それが、私の提示した条件でした。最初の数日間は、まさに戦争でした。油とホコリで固まった厨房機器を動かし、その裏側を洗浄すると、隠れていたゴキブリたちがパニックになって飛び出してきます。私たちは、それを駆除しながら、ひたすら磨き、洗い続けました。そして、厨房が元の輝きを取り戻した時、私は計算し尽くしたポイントに、ベイト剤を設置していきました。数週間後、店を再訪すると、店主が満面の笑みで私を迎えてくれました。「先生、いなくなったよ。一匹も、見なくなったんだ」。トラップ調査の結果も、捕獲数はゼロ。厨房は、あの日の輝きを保っていました。あの瞬間、私が感じたのは、単なる仕事の達成感ではありませんでした。それは、長年の悪夢から解放された人の、心からの笑顔を見ることができた、深い喜びでした。