それは蒸し暑い夏の夜のことでした。深夜二時過ぎふと喉の渇きを覚えて目を覚ました私は寝ぼけ眼をこすりながらキッチンへと向かいました。家の中は静まり返り聞こえるのは冷蔵庫の低いモーター音だけ。何の変哲もない日常の一コマそう思っていました。キッチンの電気を点け水を飲もうとしたその瞬間です。視界の端白い床の上を黒いような銀色のような小さな物体が信じられないほどのスピードで走ったのです。一瞬ゴキブリかと思いました。背筋がゾクリとし眠気など一瞬で吹き飛びました。しかしよく見るとその動きはゴキブリのカサカサとした直線的なものではなくもっと滑らかでまるで魚が水中を泳ぐかのようにくねくねとしていました。私は息を呑んでその正体を見つめました。長さは一センチメートルほど全身がメタリックな銀色に輝き長い触角を揺らしているその姿。間違いありません。ネットで見たことのある不快害虫シルバーフィッシュでした。「まさかうちに出るなんて」というショックが頭を殴りました。私は比較的掃除好きなほうだと自負していましたし家もそれほど古いわけではありません。しかし現実は非情です。奴は床の目地に沿って器用に動き私の視線をあざ笑うかのように冷蔵庫の下のわずかな隙間へと消えようとしていました。私は咄嗟にティッシュペーパーを手に取りそれを分厚く丸めて武器にしました。見失ってはなるものかという狩猟本能のようなものが目覚めていたのです。隙間に入り込む寸前私は丸めたティッシュを振り下ろしました。しかし奴は速かった。私の攻撃は空を切り奴は悠々と隙間の奥へと姿を消してしまいました。残されたのは自分の鈍さを痛感させられた敗北感とこの冷蔵庫の裏に奴らが巣食っているかもしれないという想像からくる薄気味悪さだけでした。その夜は壁の隙間から無数のシルバーフィッシュが這い出してくる悪夢にうなされほとんど眠ることができませんでした。翌朝私は復讐を誓い徹底的な殲滅作戦を開始しました。まず敵を知ることから始めようとネットで検索すると彼らが湿気とデンプン質を好むことがわかりました。我が家のキッチンはまさに彼らにとっての楽園だったのです。シンク下の収納には小麦粉や乾麺が開封されたまま置かれ床には水ハネを放置したままのキッチンマットが敷かれていました。私はすべての食材を密閉容器に移し替えシンク下を空にして徹底的に掃除しました。そしてドラッグストアで買ってきた燻煙剤を焚き家中の隙間という隙間をコーキング剤で埋めて回りました。戦いは一日では終わりませんでした。その後も数回奴らを見かけましたがその都度冷静に対処し環境改善を続けました。除湿機を導入し常に湿度を六十パーセント以下に保つように心がけました。あれから一年が経ちますが今ではシルバーフィッシュの姿を見ることはなくなりました。あの夜の恐怖体験は私にとって家を見直す良いきっかけになったのかもしれません。しかしふとした瞬間に視界の端で何かが動いたような気がすると今でも背筋が凍る思いがします。シルバーフィッシュとの戦いは終わったのではなく休戦状態にあるだけなのかもしれません。彼らは三億年も生き延びてきた強者です。私たちが少しでも気を緩めればいつでも戻ってくるでしょう。