それは数年前の、じっとりとした湿気が肌にまとわりつくような八月の深夜のことでした。私は寝室で読書を終え、電気を消して眠りにつこうとした瞬間、暗闇の中でカサカサという、紙が擦れるような不吉な音を聞きました。嫌な予感がして枕元のライトをつけたとき、視界の端で天井の隅に張り付く巨大な黒い影を捉えました。体長は四センチほどもあったでしょうか、紛れもないクロゴキブリの成虫でした。私は心臓が跳ね上がるのを感じながら、棚にある殺虫スプレーを取りに行こうとベッドから立ち上がりました。その時です。天井にいた彼が、突如としてバサバサという、想像以上に重く鋭い羽音を立てて、私の顔を目掛けて真っ直ぐに飛んできたのです。私は恐怖のあまり悲鳴を上げ、反射的に顔を腕で覆いましたが、冷たく平らな身体が頬に触れた感触は今でも鮮明に思い出せます。彼は私の肩をかすめて後ろの壁に着地し、再び猛烈な勢いでクローゼットの裏へと消えていきました。あの瞬間の、自分という存在が獲物として狙われたかのような、あるいは逃げ場のない空間で暴力的な侵略を受けたかのような絶望感は、言葉では言い表せません。それまでの私は、ゴキブリは床を這い回るだけの存在だと思い込んでいましたが、あの日を境に、彼らが三次元の空間を支配する脅威であることを痛感しました。翌日、私はすぐに専門の駆除業者を呼び、家中の隙間を塞いでもらうとともに、強力なベイト剤を設置しました。業者の話によれば、その日は気温が三十度を超えており、ゴキブリの飛翔筋が最も活性化する条件が揃っていたそうです。また、彼らは暗い場所を目指すため、黒い瞳や影になっている首元に向かって飛んでくることが多いという説明を聞き、あの時の衝突が偶然ではなく、彼らの本能に基づいた行動だったことを知りました。あの夜の出来事は私にとって大きなトラウマとなり、今でも夏場に天井付近で物音がすると、全身の毛穴が逆立つような緊張感に襲われます。しかし、その恐怖があったからこそ、私は住まいの衛生管理に対して人一倍敏感になり、段ボールを溜め込まない、水回りを常に乾燥させるといった習慣を徹底するようになりました。空飛ぶゴキブリとの遭遇は、平和な日常がいかに脆いものであるかを教えてくれた、あまりにも衝撃的で、あまりにも残酷な夏の教訓でした。二度とあのような体験をしないために、私は今日も網戸の隙間をチェックし、香りの強い忌避剤を窓辺に置き続けています。