山あいの古い一軒家に引っ越してきたばかりの直樹さんは、毎晩トイレに行くのが苦痛でなりませんでした。築年数は経っていてもリフォームされたばかりのトイレはぴかぴかで、奥さんが毎日きれいに磨き上げています。それなのに、夜、一人で電気をつけると、床のタイルの隙間から、まるで糸くずが生きているかのように細長い茶色の虫がゆらりと這い出してくるのです。その虫はムカデのようにも見えましたが、それよりもずっと細く、動きもどこかぎこちないものでした。直樹さんは「どこから湧いてくるんだ」と頭を抱え、懐中電灯を片手にトイレの隅々まで調べました。しかし、壁にも床にも目立った穴はありません。ある日の夕暮れ、直樹さんはトイレの窓の外にある、古びた木製の雨戸の戸袋に目が留まりました。そこには湿った落ち葉が山のように溜まっていました。ふと思い立ち、戸袋の隙間をのぞいてみると、そこにはトイレの床で見たあの細長い虫が、無数にうごめいていたのです。その正体は、朽ち木や湿った土を好むヤスデでした。実は、トイレの窓枠のサッシに、経年劣化でできたわずかな隙間があり、夜の明かりに誘われたヤスデたちが、その隙間を潜り抜けて室内に迷い込んでいたのでした。直樹さんはさっそく、戸袋の落ち葉をすべて取り除き、窓枠の隙間を新しいパッキンで埋めました。さらに、トイレの床下からの侵入も防ぐために、床下通気口に細かいメッシュのネットを張りました。その日の夜、恐る恐るトイレの扉を開けると、そこにはもうあの不気味な影はありませんでした。奥さんが「なんだか最近、トイレの空気が軽くなった気がするわね」と笑いました。直樹さんは、虫たちはただ「居心地の良い場所」を探して旅をしていただけで、自分たちがその入り口をうっかり開けっ放しにしていたのだと気づきました。細長い虫の謎が解けたことで、直樹さん一家には本当の安らぎが訪れました。今では、季節の変わり目に戸袋を掃除することが、この家を愛でるための大切な儀式になっています。自然と背中合わせの生活は、時に驚きをもたらしますが、そのサインを正しく読み解くことで、人間と生き物の適切な距離を見つけることができるのだと、直樹さんは深く実感したのでした。